情熱!-子育ては私の学び

家族ができたことと政治への情熱

私はもともと子どもが大好きです。でも長い間、自分は子どもが産めない体だと思っていました。大きな体格の外人選手と戦う為に、体脂肪率を9パーセントに落として体を男性並みに改造していたことで、ホルモンのバランスを崩してしまい、生理が何年もなかったからです。医師からも「もう子どもは産めないだろう」と言われていました。

ところが、結婚した主人にには病気で亡くなった先妻が遺した3人の子どもがいました。母親になることはないだろうと思っていたのに、子ども達から「お母さん」と呼ばれた時は、本当に嬉しくて、夢のようでした。

しかし、幸運はそれだけではありませんでした。

まさかと思っていた新しい命を授けてもらうことができたのです。家族を得たことで、政治に対する迷いは完全に吹っ切れました。子育て中の普通の母親が議員であり続ける事が大切だし、生まれてくる子どものためにもそれがいいと思ったのです。

子ども達がずっと普通に、幸せに生きていくため、また、すべての子ども達の将来のためにも、そうすべきだと強く感じました。私が子どもを育てながら国会議員をしていくことで、若い世代の人達に、もっと訴えるべきことがあるはずだと思いました。

国会議員の出産

当時、現職国会議員の出産は、50年ぶりで2人目のことだったそうです。そして、私の妊娠、出産問題は、永田町から波紋のように広がり、全国的な反響を呼ぶことになりました。

最初は産休制度の問題です。それまで参議院に産休はなかったのですが、私のことがきっかけで、議会を欠席する理由として、「出産」が公的に認められることになったのです。ぎりぎりまで働いて、出産後はすぐに復帰するつもりでいた私は、自分の為には、あまりその必要性を感じていませんでした。

しかし、「誰もが橋本聖子のように頑強なわけじゃない。働く女性にとって大きな問題だから、ぜひ提起して」という意見が他の女性議員からあり、また、地方議員の中には、産休制度がないために大変な思いをしている方がいると知って、立ち上がりました。

そして、シドニー五輪の年の2000年4月12日に、わが家にとって三女にあたる女の子を出産しました。最初から親孝行な子で、予定日の当日に、分娩室に入ってわずか2時間で生まれてきてくれました。結局、出産の前日まで働き、産後1週間で仕事に復帰しました。体は動きましたし、国会議員という職の重さを考えたら、これ以上は休めないと感じたからです。しかし一方で、手紙やメールで多く寄せられてきた働く女性の声は「産休を取りにくい私達のためにも、国民の代表として、しっかり休んでほしい」というものでした。

議員会館での子育ては苦肉の策

オリンピックの年に子どもを産みたいという長年の夢が現実になり、父親が与えてくれたオリンピックの夢を娘に継いで、「せいか」と名付けました。

退院後、せいかと私は、平日は東京の議員宿舎で暮らしました。千葉の自宅でベビーシッターに預けることも考えましたが、帰宅が何時になるかわからないことに加えて、乳児期はできるだけそばにいたいという思いもあり、この形になったのです。

生後1ヵ月は外に出さず、親族や知人に交代で見てもらっていました。その後は、ハイハイするまで議員会館の事務所にベビーラックを置き、せいかと2人で出勤していました。講演やイベントのある週末は、必然的に出張先まで連れ歩くことになりました。

永田町に託児所はありません。仕事時間が不規則だからベビーシッターにお願いするのも難しいと悩んだ末の選択でしたが、様々な反響を呼びました。批判の声も仕方がないと思いますが、「子育て支援の拡充」を訴えている永田町が、実は一番遅れているのです。少子化への対応が進まない今の社会に少しでも風穴を開けられたらと、そんな気持ちもありました。

三つ子の魂百まで

ただ、子連れ出勤も束の間のことでした。せいかはあっという間にハイハイを始め、それを機に、日中はある女性に預けることにしたのです。そしてせいかが10ヵ月の頃、おもしろい事に気付きました。ウェットティッシュを引っぱり出して、何やら同じ動作を延々と繰り返しているのです。一体何をしているのだろう?しばらく見ていて、はたと気付きました。その女性が床のふきそうじするときの真似だったのです。子どもは本当によく見ているものだなあ、とその吸収力に驚きました。

タイガー・ウッズは8ヵ月でおもちゃのクラブを握り、3歳のときにはラウンドしていたそうです。多分、クラブを喜ぶ姿を見た親が、その興味にとことん応えてやった結果が、今につながったのでしょう。子どもは、誰でもその子にしかない無限の可能性を秘めています。自分の能力を引き出すのも、引き出さないのも最後は自分の力ですが、その土台づくりだけは親がきちんとしなくてはなりません。そういう気持ちもあって、せいかと一緒にいることにこだわりました。

子どもに育てられている私

もちろん私自身がきちんと子育てできなければ、偉そうなことは言えません。

子どもの泣き笑いの感情が、親の気持ちの鏡だと知って自分を振り返ったり、両親が私をどんな思いで育ててくれたのかと、改めて思いをめぐらすようになりました。

私の両親は、「うちの子は、なぜこんなになったのか?」とか「どうして、うちの子は頑張れないのか?」と嘆く親が理解できないと言います。「なぜ?」って、それは全て親である自分の責任ではないのだろうか。

私が娘を「せいか」と名付け、自分と同じようにオリンピックを目指してほしいと言ったことを、父はとても喜びました。

そして笑いながら、こう言いました。「本当にそうできたら、そのときこそ、おまえのことを認めてやるよ」と。

体の不自由な子ども達とそのお母さんの応援をさせてください

この間、私は体の不自由な子ども達に出会う機会が数多くありました。その都度、「もし、自分がこの子の母親であったとしても、きちんと育てていけるという自信がないのなら、議員失格だ」という気持ちで接してきたつもりでした。

でも、いざ五体満足で生まれてきた自分の娘を見た時、「よかった」と、ほっとしている自分がいました。今でも、そう思った自分を情けなく思います。だからなおさら、一所懸命頑張っている子ども達や、お母さん、お父さんの為に、できる限りのことをしたいのです。

女性が輝いて、ぬくもりのある長寿社会

女性の社会進出が進んだ今、仕事と出産・子育てを両立させて生きる女は、確かに増えています。多くの人に助けられていますが、私もまた、その一人だと思います。

専業主婦であっても、働く女性であっても、女性がいきいきと輝く社会を目指しています。仕事と家庭の両立を阻んでいる障害を取り除く政策提案をしたり、周りに相談する人もいなくて子育てに悩んでいる女性達を支援したりすることが、私の責務だと考えています。

一方、高齢化社会が一層進展する中で、医療・介護・福祉・年金・生涯学習制度の充実強化を図り、それらの施設を地域ごとに整備する努力を続けることも重要です。  一人の生活者として、21世紀の主役となる子ども達を育てているお母さん方とともに歩んでまいります。

悩みながら、ぶつかりながらでも、自分でひとつずつ解決していかなけれゴールには到達できません。

政治家・橋本聖子の活動は、これからが正念場です。

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